スイス 山岳ホテル  No.5


ホテル・ピラトゥス・クルム の歴史

ピラトゥスはかねてより伝説があった山。

他のスイスの山々とは少し事情が異なります。

 

イエス・キリストを処刑したとされるローマ帝国の司令官ポンティウス・ピラトゥスが埋葬さられており、静寂がじゃまされると嵐が起るという言い伝えがありました。1370年のルツェルンの役所の書類にはこの山の周辺に立ち入ることを禁止。1380年には聖職者がこの山に登ろうとしたことを罰した記録が残されています。
その後1430年頃からは周辺地域への立ち入りが可能になり、1518年に自然科学者が、続いて1555年にチューリヒの医師が入山し、両者共この山のすばらしさを賞賛。動植物などの生態の記述が残されています。

 

18世紀初頭にはスイス自然史にピラトゥス山がはじめて登場。動植物、地質学、伝説についての書物も出版されています。
そして同じころヨーロッパに自然回帰運動が起こります。ルソーは「自然への回帰」の中で"ピラトゥスの自然はすばらい"、と述べ世界中に注目されることとなりました。

その当時ピラトゥスには毎年約3000人のハイキング客や登山客が訪れており、宿泊施設へのニーズが高まっていました。ピラトゥスに出来た最初の宿舎は、標高1900m付近に1856〜60年にかけて建設したホテルクリムゼンホルン。カスパーブレットラー氏がアルペンローズが咲き乱れる丘に建設しました。ほぼ同時期の1855年9月30日に地元自治体アルプナハはピラトゥス山山頂にホテルを建設する許可を出しました。1859年夏に山頂にヒュッテを仮オープン。翌年の1860年にホテル・ベルビューを完成させました。その後、ホテル・ベルビューは100年後の1960年に火災で消失。3年後にファーストクラスホテルとして再建。(25部屋、セルフサービス及びアップグレードされたレストランも併設)1998年に再度改装されて現在でもクルム・ホテルと並んで山頂に建っています。
一方、クルム・ホテルは1890年に鉄道会社によって建設されました。1999年には文化財として指定を受け、2010〜11年にかけて改装が行われ現在は27部屋。民族調のレストラン、スイートルーム、ビジネスセンター、テラスレストランなども作られました。ベルエポック調のメインダイニングはクイーン・ビクトリアと命名。それは1868年にビクトリア女王がピラトゥスを訪れた記録が残されているものによります。

そしてもう一つピラトゥスの歴史を語る上で忘れることの出来ないのは世界最大の急勾配を誇る登山鉄道。
1873年にルツェルンの信用組合によって初めて通常軌道による構想が作られましたが、技術的、資金的に困難なことが判明し中断。しかしピラトゥス山麓を走るブリューニック鉄道が開通したことによって再び構想が持ちあがります。
ラックレイル(歯車)方式の登山鉄道とし、80センチの線路幅、カーブの最少半径80メートルで設計し直され、そして最大の特徴はロッハー式という水平式の歯車の方式を採用したことにあります。これは最大傾斜48%は世界最大の勾配でラックレイルの歯車が浮いてしまうのを避けるために採用され、その後1889年にパリ万博で世界で初めて紹介されることになります。1885年にこのプロジェクトに対してスイス国から認可が下り、1886年には開通した500メートルの区間の試運転に成功。この時にブレーキや運転システム、線路そのものを移動させるポイント切り替え方式などが試されています。
ついに1889年6月、全長4618mのピラトゥス鉄道はオープンしました。電化直前の1937年には11台のSLによって運行されていました。現在では山頂まで直流方式の登山電車が約30分で結んでいます。
では最後にどうしてこのような急勾配にかかわらず、ケーブルカー方式を採用しなかったのか。
ケーブルを引くにはあまりにも距離が長かったから、そしてもう一つは輸送量が増大した時にケーブルカーでは対応出来ない、という理由からだったと言われています。現在、臨時の登山電車が次々と満員のお客様を乗せて出発していく様子を見ると、その19世紀の判断は非常に正しかったように思えます。