スイス 山岳ホテル  No.2


リッフェルハウス 1853 の歴史

奥深いフィスパー谷の行き止まりにある小さな村、ツェルマットへは徒歩またはロバを使ってしか行けませんでした。その当時、村の外に出たことのある者はほとんどなく、皆、農業のわずかな収入で生計をたてていました。ツェルマットに最初に宿泊施設が作られたのは1838年。医師のヨゼフ・ラウバーが建てた簡単な宿泊施設、ホテル・セルヴィーでした。(現在のホテル・モンテローザのある場所です)当初のベッド数は三つ。後に七つに拡張しています。
しかしアルピニズムの時代を迎え、宿泊に対するニーズはどんどん大きくなります。ツェルマットの住民の中にはもっと土地を売り、宿屋を建設し、村を繁栄させたいという動きが活発になると同時に、リッフェルベルグの山の稜線にもホテルを建てたいという申し出が外部からも相次ぎました。しかし、この土地はツェルマット村の所有であり、そう簡単に外部の者に引き渡すわけにはいきません。そこで生粋のツェルマット村民、ヨゼフ・ルーデン牧師は同じくツェルマット出身のヨゼフ・クローニッヒとマティアス・ヴェルシェンと共に村の所有の土地を買い取り、リッフェルベルグにベッド数18のホテルを建てることを決断しました。しかし標高2555mの何もない所へのホテル建設は想像以上に困難の連続でした。まだ登山鉄道は開通していなかった時代ですから、あらゆる建築材料の運搬をはじめ、角材、板材の裁断を人の手で行う必要があったからです。なおかつ彼らにはホテル経営の知識も、それに費やす時間もありませんでした。1854年、困難を乗り越えてホテルは完成しましたが、彼らは経済的に苦しい状態であった為に完成と同時にアレクサンダー・ザイラーにホテルを売却することになりました。皮肉なことにここからがアルピニズムの黄金時代の始まりでした。というのは完成の翌年、1855年にこのホテルを拠点にスイスの最高峰、モンテローザのドゥフォール・シュピッツェが登頂されたからです。


この成功を機にリッフェルベルグは注目され、人気が一気に高まりました。ツェルマット住民の中には山頂の土地をより高く外部の者に売るべきだとの声もあがりましたが、建設作業に直接携わった村民は逆にホテルを村のものにすることを考え、1862年山岳ホテル・リッフェルベルグをアレクサンダー・ザイラーの手からツェルマット村営に戻しました。外部の経営による観光開発ではツェルマットの土地が外部の者に買い占められ、村民が将来的に移住を強いられる危険性があること。そして何よりもツェルマットが他の資本に依存をしないでいられるためにとの考えからでした。その時代から彼らはツェルマットの将来は観光産業にあると確信をしていたのです。

間もなくホテルの拡張が必要となりました。しかし村にはその資本力がなかったため、またもやアレクサンダー・ザイラーが登場します。それまで貯まっていた借金の返済に彼は個人資産をつぎ込み、村はその代わりに建築材料を15年間の賃借という条件で即日提供しました。こうして行われた改装の結果、ホテルはベッド数30、ホールが2つとキッチンのある立派な建物になったのです。


その当時山のヒュッテというものはまだなく、山岳ホテル・リッフェルベルグは著名なツェルマット地域の登頂の拠点となりました。モンテローザ山群やテオドール地域への登頂ツアーの出発点となったのです。世界的に有名な登山家たちが泊まり、登山についての執筆も行いました。アルピニズムの第一人者たちがホテルの名を世界に広めていった訳です。ドゥフォール・シュピッツェ、リスカム、ノルトエンド、パロットシュピッツェといった山が初登頂される中、ホテルの宿泊者リストは著名な登山家の名前で埋められていました。1865年7月にマッターホルン初登頂後に悲劇的に命を落としたダグラスとハドソンの両名も宿泊者リストに載っています。

時代を超えて有名な冒険家、マーク・トウェインは親友ハリス・ツゥイッチェルとともに1878年8月18日、徒歩でゴルナーグラートに登り、その帰路にリッフェルベルグの32号室に泊まっています。彼はその後自分の著作「ヨーロッパ放浪記」にリッフェルベルグでの滞在についてユーモア溢れるエピソードを残しています。このこともリッフェルベルグの名を世界に広めるきっかけとなりました。ホテルの宿泊名簿には彼の本名、サミュエル・ラングホーン・クレメンズの名前が残されています。

●登山鉄道の開通
1891年にフィスプ~ツェルマット間の鉄道が開通すると、リッフェルベルクやゴルナーグラート展望台を目指す旅行者たちが増えてきました。毎日のように70頭ものロバや数多くの籠に乗った客がリッフェルベルグへと登っていったのです。19世紀の後半、あらゆる技術の発展により鉄道の開通に人々は胸を膨らませていました。リッフェルベルクに登山鉄道をというユートピアのようなプロジェクトが始まっても不思議はありません。そしてついに1895年、そのプロジェクトは国の承認を得るに至りました。翌年ゴルナーグラート鉄道株式会社が設立され、鉄道の建設を開始。およそ3000人のイタリア人を中心とした作業員が、機械をほとんど使わずにおよそ2年間でこの登山鉄道を完成させたのは、神業にも近いものがあります。この鉄道の開通によりリッフェルベルグの訪問者層が変わります。登山家や科学者といった自然をこよなく愛する者たちに加えて、徒歩では登らなかったであろう、一般の観光客の割合が飛躍的に増えたのでした。
1950年代になりヨーロッパの景気が回復すると、ウィンタースポーツの需要が高まりました。戦前はエリートのスポーツとされてきたスキーが徐々に庶民のスポーツとしての地位を築きあげていきました。それまでダヴォスやサンモリッツの影に隠れていたツェルマットはこの動向により、一躍有名なスキー場になりました。勿論山岳ホテル・リッフェルベルクがその中心的な存在となったことは言うまでもありません。

●2014年の改装
2014年12月に山岳ホテル・リッフェルベルクは全面的に改装され、設立当時の名称「山岳ホテル・リッフェルハウス1853」に戻されました。ジュニアスイート4部屋を含む25の部屋がリニューアルされ、同時に四つ星ホテルとなりました。東側のお部屋にはテラスが設けられ、そこからはマッターホルンの雄姿を望むことも出来ます。地階に新設されたスパエリアにはサウナ、談話室、マッタ―ホルンを望むジャグジーが新設され、より快適なホテルライフを楽しめるようになりました。
各部屋にはトイレとシャワー、電話、テレビ、セーフティボックスが完備されています。夏の間、ホテルのレストランは宿泊客だけでなく、ハイキングのお客様にもお立ち寄りいただけます。

●ホテル・リッフェルハウスが愛される理由
150年前から山岳ホテル・リッフェルベルクは雪深い土地で生き延びるエーデルワイスの花のようにあらゆる客層の変化を経験してきました。19世紀から21世紀までの歴史でこのホテルはリッフェルベルクの山と共にすでに自然環境の一部ともなっていると言えましょう。
ホテル・リッフェルハウスが愛される理由  -  それは山を愛する人々に、山と調和した伝統的な、そして本物のサービスを提供し続けるところにあるのです。