スイス 山岳ホテル  No.3


ホテル・ベルビュー・デザルプ の歴史

●シャイデック・ホテルの歴史宿屋「ツア・ゲムゼ」
クライネシャイデックに最初に宿屋が建設されたのは1840年。ラウバーホルンとドライゲスティルンの間の峰をつなぐ鞍部にZur Gemse「ツア・ゲムゼ」という名前で誕生した峠の山小屋が最初でした。初代のオーナーはChiristianSeile(rクリスティアン・ザイラー)。そしてその後ホテルを発展させたのがその息子のAdolf Seile(rアドルフ・ザイラー)という人物です。クリスティアンは買い取った山小屋を1842年に建て直してホテルとして本格的にオープン。

息子のアドラーはどちらかと言うとアイデアマンでした。彼はグリンデルワルトでの水源の採掘に着手したり、将来の需要を見越してクライネシャイデックからグリンデルワルトまでの下水道敷設の工事などを行ったりしました。またホテルの玄関には大砲を置き、アルフォンソ、ダウデット、タルタリンなどのホテルのお客として滞在していた登山家が、アイガー、メンヒ、ユングフラウの登頂に成功するたびに祝砲を鳴らしたりしていました。(現在でもその大砲がホテルに保存されています。)当時はまだ鉄道が開通していない時代。物流システムにはロバの大群が導入され、グリンデルワルトやラウターブルンネンからのおよそ1000mの標高差のお客様や物資の運搬を担当していました。


●「ホテル・ベルビュー」と「ホテル・デザルプ」
1864年にHotel Bellevue「ホテル・ベルビュー」が完成。1896年にはすぐ横にHotel Des Alpe「sホテル・デザルプ」が完成しました。当初「デザルプ」はザイラー一族の成功を妬んだ麓の村民によりライバルホテルとして建てられたものでした。(「ホテル・ベルビュー」の景色を遮るように建てられているのはそのためです。)しかしその後の住民集会で村民はホテル「デザルプ」を経営するよりも牧畜を行い、チーズを作っていた方が良いという結論に至り、1914年に「デザルプ」はおよそ10万ゴールドフラン(当時の通貨)でアドルフに売却されました。結果的に彼は二つのホテルを所有することになり、その後一階部分をテラスでつなげてほぼ現在のホテルの形が整うことになります。1893年にようやくラウターブルンネン、グリンデルワルトからの登山鉄道がクライネシャイデックまで開通。ロバの大群には別れを告げることになります。1912年にはここからユングフラウヨッホまでの登山鉄道も開通したこともあってクライネシャイデックのお客様は飛躍的に増加します。


●第一次世界大戦
ザイラー一族の成功物語は1914年の第一次世界大戦の勃発に伴い終わりを告げます。それから約4年間2つのホテルはクローズしていたものの、蓄えがあったおかげで大戦下の不況をなんとか乗り切ることが出来ました。1892年に跡継ぎとして誕生していたアドルフの一人娘、Emma(エンマ)も美しい女性に成長しパリやロンドンで洗練された振る舞いを身につけていました。トリュンメルバッハの紳士、Fritz von Al-men(フリッツ・フォン・アルメン)少尉が彼女を頻繁に訪ねるようになったのもこの時期です。そしてその後二人は結婚し、ともに冬の間はホテルで働きました。1925年、二人は、父親であり義父であるアドルフのもとを訪れ、彼の所有する二つのホテルの彼らへの売却を相談。快諾を得たフリッツとエンマがその後の経営を引き継ぐことになります。そしてフリッツの地元、トリュンメルバッハの会社がその経営を全面的にサポートする体制が整いました。

●冬のビジネスへの挑戦
やがて時代はヨーロッパ中が輝き、狂乱の時代とも言われる1920年代、30年代に突入していきます。同時期イギリスではモダン・スキーが開花。夏期専用のホテルだった「ベルビュー」と「デザルプ」にはセントラル・ヒーティングシステムが導入され、即興で造ったバーには暖炉も完備しました。大挙して押し寄せたイギリス人たちはラウバーホルンまで毎日スキーを担いで登り、一日に一度、グリンデルワルト又はヴェンゲンまで滑り降りていました。その頃、ヴェンゲルンアルプ登山鉄道も、しぶしぶ冬期運行を開始。イギリス人達はその列車で2064mのシャイデックに戻ってきたものです。登山鉄道の車掌や機車掌や機関士たちは定期的にバイキングスタイルの小パーティーに呼ばれました。「素晴らしい鉄道の旅のお礼に」、と。フリッツ及びエンマ・フォン・アルメン・ザイラー家の冬への挑戦は1925年/26年の最初のシーズンから大成功を収めました。1929年/30年にかけてホテルは冬期設備が万全となり、多くの部屋にバスタブも完備しました。いわゆるラウンジというイギリス風のホールが出来あがり、バーの装飾にはエリッヒ・ケストナーの著書のイラストレーター、ワルター・トリーヤの水彩画が使われました。更にアイガーの北壁を一望する、フランス調の小パーティールームが完成。そこにはグランドピアノも置かれました。また、ブリュムリスアルプ山群からメンヒまで見渡せるレストランも完成。ティーテラスも出来たのですが、これは強風の際には毛皮のコートなしには使えなかったと伝えられています。本物のスタイルを生かしたレストランも作られ、毎晩、カルテットオーケストラが演奏を披露していました。


当時のホテルは11月末か12月初頭にオープンし、5月になってからようやくクローズしていました。まだ温暖化が進んでいなかった当時、クライネシャイデックの標高では文字通り「5月までスキーが出来る雪の土地」そして「最初にオープンし、最後にクローズするスキー場」だったのです。


またホテルの前ではカーリングも行われていました。ホテルのコンシェルジュも加わったシャイデック・ゲストチームは1934年、当時の世界選手権とも言われていたジャクソン・カップで優勝しました。

アイガー北壁

そして1930年代には再びアルプスの登頂競争が始まります。標高3970mのアイガーは1858年にイギリス人バーリントンが初登頂されていました。しかし1800mの高低差を誇るアイガー北壁はその80年後の1938年、そして北壁バリエーションのラウパー・ルートは1932年になってから征服されました。バーリントンからラウパー、そして北壁の征服者であるヘックマイヤーといった人々は皆、シャイデック・ホテルの常連客でした。また、冬期の初の登頂者、ダイレクトルート初の登頂者、初の単独登頂者、初の女性、初の日本人など、クライネシャイデックはアイガーへのベースキャンプであり国際的になった地点として注目を浴びたのです。


第二次世界大戦

輝かしい時代が続き、フリッツとエンマはホテルの「玄関先」のラウバーホルンにスキーリフトをかけることを計画しました。(実際にリフトが完成したのは1941年/42年)しかしその前にヨーロッパに1939年という年がやってきました。第二次世界大戦の開戦です。スイスは戦場になることはありませんでしたが、勿論観光業では生き残ることが出来ません。しかしここにはスイス陸軍の冬期山岳コース所属の兵隊が駐屯していたおかげでホテルはこの時代を生き延びることが出来ました。ホテルオーナーと軍隊は互いに好感を持ち、それがきっかけで彼らの多くは灰緑色(軍服の色)、または白でカモフラージュしたスキー行軍用のコートの想い出抱いて、のちの平和な時代に常連客として戻ってくることになります。

●現在へ
ベルビューとデザルプは1947年に改築され、ベルビューには更にベルという階層が増築されました。輸送力のあるスキーリストの力もシャイデックに更なる成功をもたらしました。ファミリーでは息子のFritz von Almen(フリッツ・フォン・アルメン)が両方のホテルのオーナー兼支配人となり、彼が若くして1974年に亡くなった後にはその妻が引き継ぎました。1998年に彼女はホテルとその周辺の土地を一番年上の甥、Andreas von Almen(アンドレアス・フォン・アルメン)に売却します。本職が建築家のアンドレアスはフルート奏者の妻、シルビアとともに、ホテル経営を続行しています。
重い回転ドアはお客様をエントランスホールへと誘います。そこで皆、自問するのです「私はどこにいるのだろう?」と。その通り。誰もが1920年代に戻ったような気分になり、そこで「時代と無関係なノスタルジック」な雰囲気に浸ることになります。廊下、お部屋、ダイニング、様々なコーナーには世紀末の想い出があり、時の流れの中、一世代戻ったかのように感じます。或いは標高2064mのわずかな空気圧の差が現実から人を離すのでしょうか?タイムラグというものなのでしょうか?まるで一昨日と今日の間の時間を行き来しているようです。紛れもない本物の内装や家具、絵画が時間の感覚を狂わせるかもしれません。回転ドアから1929年につくられたバーに向かう廊下には、1937年から1992年までのアイガー北壁の征服者たちの写真が飾られています。バーの椅子に座り「オン・ザ・ロック」を楽しみながらこのホテルの歩んできた歴史、アルプスの歴史、同時にヨーロッパの歴史に思いを馳せてみられてはいかがでしょうか?