スイス 山岳ホテル  No.1


3100 クルムホテル ゴルナーグラート の歴史

●ゴルナーグラート展望台の発見
太古の昔から何世紀にも渡って荒涼とした景色が広がっていただけのこの場所にゴルナーグラート展望台が発見されたのは1848年のことでした。イギリス人医師のDr. John Forbes(ジョン・フォーブス)はツェルマットにわずかな期間しか滞在していなかったにもかかわらず、数多くの登山家や探検家が見向きもしなかったこの比較的登りやすい山の頂きから見る氷河の流れが、ツェルマットで最高に素晴らしいのではないかと考えました。実際にそのことを確認した彼はイギリスに帰国するとすぐにその発見を世間に公表しました。1856年、当時有名なガイドブックであった「Baedeker」誌にゴルナーグラート展望台とそこからの大パノラマが掲載されることになり、その結果ゴルナーグラート展望台はヨーロッパで一世を風靡し、世界に向けて紹介されることになったのです。
同時にこれはこの地域への観光ブームの到来を意味しました。ツェルマット村民のみならず、地元のフィスプ谷の住民たちにもロバ引きや籠かつぎという仕事をもたらすことになります。1892年にフィスプからツェルマットまでの鉄道が開通してからは、毎年約8000人もの観光客がツェルマットからゴルナーグラート展望台に徒歩またはロバ、そして人力籠という手段を使って登ったという記録が残されています。まさにスイス観光の歴史がこの展望台には残されていると言えるでしょう。


●ベル・エポック時代の幕開けとゴルナーグラートのゲストハウス
19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパの工業や交通などが飛躍的に発展した激動の時代、ベル・エポックが訪れました。スイスではフィスプ・ツェルマット鉄道をはじめ、リギ鉄道、ゴルナーグラート鉄道などの多くの登山鉄道が建設され、グランドホテルも建設されていました。その勢いはツェルマットの山奥の谷までも一気に押し寄せ、何百年もの間続いた伝統と価値観を一夜にして拭い去りました。19世紀末のアルプス登頂競争のアルピニズムの時代は終わり、この地の主役は登山客から観光客に変わっていました。
ゴルナーグラートは50年ほど前からアルプスが最も美しく眺められる展望地点として知られており、ここから標高約500m下に建てられ、1855年にオープンした村営の山岳ホテル・リッフェルベルクもすでにすばらしい営業成績をあげていました。ツェルマット村を訪れる観光客は皆、この魔法のような尾根を一度は目にしたいと考え、標高3100m地点のホテル建設には充分に意義と勝算があったのです。当時は地中海諸国の企業がゴルナーグラートやマッターホルンに歯車式鉄道を建設しようと考えているなど、様々な噂が飛び交っていたこともあり、ついに地元のツェルマット村は自力でゴルナーグラート山頂に山岳ホテルを建てる決断をしました。
しかし1886年当初、Stephan Biner(シュテファン・ビーナー)に下りた建築許可はゴルナーグラート山頂に「Cabane」、キオスクのようなものを作ることだけでした。そしてその許可どおりに簡素な木造りの建物が尾根の最も美しい場所に建設されました。しかしこのみすぼらしい小屋では数限りない観光客の要求を満足させることは出来ず、間もなく解体されることとなります。


●最初のホテル、ベルベデーレの建設
1894年、最初のホテルの建設はJoseph Perren(ヨゼフ・ペレン)とJoseph Biner(ヨゼフ・ビーナー)に託されました。それまでにツェルマットの村営ホテル、ツェルマッターホフやリッフェルベルクの建設工事に携わっていたツェルマットの村民はすでに優秀なホテル建設作業員となっており、二人は実直なこれら作業員と技術者を呼び集めすぐに建設作業にかかりました。そして翌年、展望台に小さな木造のホテル、ベルベデーレを完成させました。
ホテル・ベルベデーレの建設は大胆な決断だっただけではありません。登山鉄道が1898年になってようやくゴルナーグラートまで開通したことを考えると、その建築の労力と功績は感嘆に値します。石や砂は現場で調達され、柱や木材はそのすべてが人力によって山頂まで運ばれたのです。
さて、観光客や村人に大きな喜びと希望をもたらすはずのホテルの完成でしたが、すぐに悪評が立ち、人々の怒りをかうことになってしまいました。一番の問題はこの小さなホテルが山頂の最も景色の素晴らしい場所に建設されていたことにあります。(現在のホテルの後ろにある高台に建てられていました)周辺の4000m級の山々が360度の眺望で最も美しく見える、まさにその地点を占領するかのように建てられていたわけです。そしてもう一つの問題はすぐに需要とお客様の要求に追いつけなくなったことでした。当時、登山鉄道で展望台まで登ってくる人々はヨーロッパの貴族や富裕層が中心。これらの裕福な人々はようやく上がってきたこの山頂で貧相な山小屋での宿泊を体験することになったのです。このことは観光客だけではなくツェルマットの村民やゴルナーグラート鉄道の経営陣の怒りにもふれたのでした。

●1907年、ホテル新設
ヨーロッパ諸国が安定し、国が豊かになるにつれツェルマットには観光業を中心とした多額のお金が流れ込んできました。しかしこのことは周辺の妬みをかうことになり、同時にそのお金を狙う人々も増えてきます。ゴルナーグラート鉄道の株主たちは運賃だけでなく宿泊業でも儲けようと考え、鉄道路線を延長し、ツェルマット村民の願望であったゴルナーグラート展望台での村営ホテル建設の権利も奪おうという動きに出ます。こうして勃発したゴルナーグラート鉄道とツェルマット村との激しい戦いはベルン国会の裁定を仰ぐ事態にまで発展。最終的に国会はツェルマット村民に軍配をあげました。この事件によりツェルマット村民は自分たちが決断しなければ外部資本が次々とツェルマット村に入ってくる時期が迫っていることを思い知らされることになります。そして1906年7月9日、ついにツェルマット村はゴルナーグラートにもっと大きなホテルを最初のホテルよりやや下方に建設することを決定しました。ゴルナーグラート鉄道は路線を300m延長。当初より50m高台に駅を移設。更に古いホテルの解体に1万8千フランを投じ、建設予定のホテルの建材の安価な運搬を約束することになりました。
ツェルマット村民の勝ち取ったホテルのイメージとしては、どっしりとした、城塞に似た、自然の岩石の壁で出来た建築物。つまり何物にも屈しない村民の誇り象徴のようなものでした。設計をまかされた建築家、シダーズ出身のMarkus Burgener(マルクス・ブルゲナー)は様々な様式について思い悩んだ結果、シンプルなバロック調のメインビルディングと2つの中世風で建物を構成しました。ネオゴシック、ネオルネッサンス、ネオバロック、ネオクラッシチズム=折衷主義の建築様式の要素が感じられ、四角形の小さな窓枠と傾斜の急な屋根の建築物はイェズス会様式を保ち、この主要建物に彼は2つの中世風の丸い塔を増築。それを補強するために石で出来た装飾を施した冠までつけました。古代ローマ人が丸い塔を建築する際によく使っていた手法です。全体をまとめるためにメインエントランスにダブルの装飾トライアングル(三角形)をつけました。それはルネッサンス時代の荘厳な建物によく見られる三次元宇宙の象徴としての常套手法でした。
このようにして1907年、クルムホテル・ゴルナーグラートは中世的な堅固さを持ち合わせながらも、当時この地方で流行していたバロック調の喜びをもたらす厳しさ、そしてルネッサンス調による柔らかさを混在させた建造物として完成しました。下の放牧地、またはシュヴァルツゼー湖方面から眺めると尾根の上に大胆かつ誇らしげに難攻不落の城塞のように君臨するホテル。後から付け加えられた、両方の塔の上に据えられた天文台の金属製の光るドームがこの情景に溶け込めないものの、このドームによりクルムホテルにエキゾチックな効果を出しており、21世紀に向けての発信をしているように見えます。

1909年に完成された43の部屋と70のベッドを持つ贅沢な山岳ホテルの建設には結局約50万スイスフランがかかりました。当時のお客様の要望に応えるべくあらゆる条件を満たし、そしてその結果収益も大きかったのですが残念ながらこれはツェルマット村のものにはならず、第一次世界大戦の勃発まで賃借人の元に入ったのでした。
サラエボのオーストリア皇太子殺害事件は第一次大戦に発展し、それまでの良い時代にもとうとう終焉をもたらしました。旅行客は激減し、農業からサービス業に転じていたホテル従業員や村民たちは苦難を強いられました。ホテルはどこもみな、生き延びるためだけに必死でした。山岳ホテルの賃借料も引き下げられましたが、それにも拘わらず結果的にツェルマットのホテルもブルガーゲマインデ(村組織)も比較的戦争をうまく生き延びました。1920年、ブルガーゲマインデは再びホテルを自分たちで経営することに決め、賃借人との契約を解消。以降現在に至るまでホテルの経営はブルガーゲマインデによって行われています。

●2005年改修工事
ゴルナーグラートに上った旅行者は誰でもホテルで食事や宿泊を楽しみ、または少なくともコーヒータイムを楽しみたいと思うはずです。確かにクルムホテル・ゴルナーグラートは完成当初からひときわ「華」をもっていた存在でした。しかしながら建設から100年近くが経過しあらゆる箇所で問題が出ていました。内装が低下し、色落ちし、技術的にもその場しのぎでの修理を強いられることが多くなっていました。つまり1907年の建築物には時間も手間もかかり過ぎるようになっていたのです。大掛かりな修理の時期が近づいていました。
改装に必要と算出された投資額は960万スイスフラン。日本円でおよそ10億円。この予算を確保するためにはホテルだけでなく、その周りの環境も含めて誰をも納得させる政治的かつ経済的なコンセプトをたてる必要がありました。ゴルナーグラート鉄道とブルガーゲマインデ(村組織)でゴルナーグラート・エクスペリエンス(株)の合資会社を設立。目的はゴルナーグラートを展望スポットとしてではなく、体験スポットとして生まれ変わらせることでした。建物の内装を変え、1階にはショッピングモールを作りました。外観はさほど変えず壁は残し、テラスと入り口を改装。窓には現在の基準に合わせたガラスがはめられました。内装は全くと言っていいほどの大改装を行いました。部屋の位置を代え、各部屋の面積を広げ、サービス用の通路や人の動線も変わりました。特に1階の利用面積は4倍にもなりました。暖房、空調、衛生施設、電力供給といった技術面も全て変更されました。セルフサービスレストランは天井を高くすることにより、開放感が生まれ、クールな冷静さを保つようになりました。それに対しダイニングルームはモンテローザ山群を望む木造の昔ながらの暖かな雰囲気をかもし出しています。
今日、ホテルはツイン22部屋、うちスイートルーム2部屋という規模を誇っています。単なる山小屋ホテルを想像してきたお客様はその設備に驚かされます。現代的なデザインと機能を持ち合わせ、全てのお部屋が今日の三つ星ホテルの基準を満たしています。それぞれの部屋には周辺の山々の名前がつけられました。そして部屋の窓を拡張することで、何よりも山の景色をより楽しめるようになりました。この「かぶりつき体験」こそ、ここに宿泊するお客様の何よりの醍醐味です。